2011年3月1日火曜日

ジョン万次郎 中浜万次郎

中浜万次郎
中浜万次郎
日本人の名字(苗字)は、地名から取ることが多いようです。ジョン・万と呼ばれた中浜万次郎も生まれた時に名字は無かったそうです。その後明治になってから、故郷の高知県土佐清水市中浜から、つけたそうです。
名字の多くは「地名」を取って付けられるようですが、徳川松平も基を辿れば地名と繋がっています。平家や源氏の時代にも同じような発想ができるでしょう。そのルーツは天皇家につながり、分家を繰り返しながら繁栄をして、地名から名字を付けています。
左のファイルの通り、中浜万次郎は勝海舟と同時代を生きています。違いは身分です。(意外なことに勝海舟のルーツは新潟県にあるようです。)生まれながらの武士と、名もない漁師の子では、同じ人間ながらも全く違う人生を歩むわけです。
漂流後アメリカで10年間生活する中で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。彼は寝る間を惜しんで熱心に勉強し、首席となった。
民主主義や男女平等など、日本人には新鮮な概念に触れる一方、人種差別も経験した。同時に捕鯨や金鉱労働で稼いだお金で、日本向け航海する船を捜し、ハワイで別れた同胞も連れて帰国するわけです。今考えても出来そうにない偉大なことをやってのけたわけです。ハワイの同胞も一緒に連れ帰るという義侠心は、困窮の中の私ではとても発想できそうにありません。鎖国を迫られた日本は咸臨丸で日米修好通商条約批准のため、勝海舟や福沢諭吉とアメリカに向かうわけです。2年以上も200トン前後の捕鯨船で働いていた万次郎にとって、海も陸も同じ感覚で生活できたでしょうが、経験の無い船長の勝海舟や福沢諭吉にとって耐え難い難儀で有った事は想像に難くないでしょう。620トンの咸臨丸でも洋上で時化に合えば木の葉と一緒です。(1万トンを超えるフェリーでも、冬の日本海ではそれなりに酔います。)その20分の一サイズの船が太平洋を越えるのですから、胃袋の中は水の一滴もなくなる思いでしょう。そうすると、精神的な衰弱が始まってきます。2ヶ月近くもその状態が続くことを思うと(実際には長くても1~2日で納まります)半狂乱に近い精神状態となってしまい食事は勿論、水でさえ喉を通りません。エネルギーが足りないところに生活意欲が減少するのですから、死人も同然です。
続く

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